夜が長い。
少し前までは銀座や新宿に足繁く通っていたが、今は何だか歩く気になれず早々に家に帰るようになった。
この職業になってから初めて迎える春だ。
私は深まった春が得意ではない。
その日は特に、会社周辺の会社員達の疲弊やそれらの群衆に紛れた正気ではないような浮ついた気配が生温かい空気と共に顔に纏わり付いてくるようだった。
仕事が終わるや否や早くこの場所から遠ざかろうと急いで電車に乗り、うんざりしながら帰路の人気のない道に入り込んだ。
その日は試香の所感を残そうとBogue ProfumoのNOUNを付けていた。
Bogue Profumoは海外では軒並み評価の高い新鋭ブランドだ。
私はまだこのブランドを総括できる言葉を持っていない。しかし、古典的な製法と熟成したヴィンテージ香料が一見古風にも思えるが、その実クラシカルの皮を纏った、最前衛の香りだとは分かる。
NOUNもまた複雑な香りであるがブランドの中では比較的付けやすい。
案外暑くも寒くもない今の時期に合う珍しい香りだと思う。
所感は以下。
NOUN
→最初ボトルを開けるまで、どこかカビっぽい香りを感じたが全く心配なかった。
トップはライム、ユズ、オレンジなどのトップらしいジューシーな甘みのある柑橘系の香りがプチグレンの爽やかな苦みに抱えられながらまとまった調子で現れる。グリーンはミント、プチグレン、バジル、など甘さを引き立てる類の香りが担っており、その茂った葉に乗せられた果汁が上から降り注いで来るような独特の広がらなさが、明るい香りである調香なはずなのに夜の先の見えない暗闇を彷彿とさせて印象的だった。
奥まで吸い込むと、仄かにベンゾインのようなガルバナムやレジン系の凝縮された質感の底に行き着く。この段階でややパウダリーに香るミドルの花々や層の厚いベースの存在がこれからの香りの舞台の輪郭を作り込んでいるのが分かる。
それは先ほど言ったように何か優しいものに「抱えられる」といった感覚で、どこか柔らかい狭い空間で広い空間の切り取られた一部分をメランコリックに享受しているような(決して悪い気分ではない)感覚だった。
徐々にオレンジのキャンディーのような甘酸っぱさを残したグリーンの中に時折それと交代する様にミドルのイランイランとジャスミンの気配を感じられるようになってきた。それは明らかにトップの植物とは属性の違う(同じ植物だが)、優しいが確かに動物的な血の通い方をしており、現れるとそちらに意識が行ってしまう。
ここまでのトップは例えれば深い夜空とどこかで茂る濃緑の葉的な風景が抽象的に描かれているが、ミドルに差し掛かるにつれて新しい描写が加えられてゆく。
序盤からあったパウダリーさがクラシカルなローズとゼラニウムの表情を一層出しはじめ、面状にごく薄く広がって行く。布のような繊維感は体温と混ざり合い、グリーンと花々より手前でそれらの中腹の香りを温め始め、トップと同じように広がりは動きと言うより鼻をその場に落ち着かせるような香りになっていった。
視点は一つなのだが、手元のパウダリーさとグリーンとミドルの動物的な花の香りを行ったり来たりする感覚は、何やら揺りかごののような揺れ方だと感じた。
夜の広い庭で一人揺りかごの中で揺られながら、揺りかごの外に広がっているであろう外の草花のざわめき、野の動物の痕跡、様子を嗅覚だけで探るような幼子の気分だった。この先は己の香りの染みついた夜露に湿ったブランケットだけが味方の、孤独だが静かで神秘的な一夜の体験となるのかもしれない。
このミドルで香りの豊かさが極まると、徐々にラストに向かって甘さはベースノートのレジン部分に沈み込んでゆき、パチュリの土のような鼻に抜ける深い湿り気とセダーやベチバーなどの乾いた香りが全面に押し出されてきた。ただし、一面ドライなウッドというわけではなく、あくまでレジン系の甘さは最後まで続く。
ベースにはオリバナムやバニラとベンゾインが入っているが、ようやく見えたそれらの全貌は、トップ〜ミドルで他の香りと上手く混ざり合いクラシカルさやヴィンテージ感を醸し出していた層の厚いものではなく、浸透して行くように肌との距離を縮め始めた。その様相は今までの体験が遠い昔のように思えるような沈着さをもっている。緩やかに変化していたはずなのに、ラストの半ばまで行くと、ひょっとしたら今までの香りの揺れは全てベースの香りが見せていた幻影だったのではないかという感覚を覚えた。
白昼夢から覚めるように記憶や快楽への没入をふつりと切ってしまうような良い意味での静けさがある。
これはBogue全体に感じているが、確かに香り自体は濃厚なのだが、個々の立体的で個性が立っている香りがお互いの口を塞ぐように重なり合っており、その身を寄せ合って息を潜めているような、眼差しだけ感じるような沈黙がとても現代的だと感じた。
立ち止まって腕に乗せたNOUNの香りを吸い込むと、なんだか自分が暗い道の一部となって、遠くから誰かに見られているような気分になった。
普段とは少し遠回りをして暗い夜道を通り抜けて家路に就いた。
最後の古い家の角を曲がると、その何十年も前に閉めて久しい商店のシャッターの奥からは微かにテレビの乾いた音が聞こえていた。