polar night bird

香りの記録

92.微酔《PAS CE SOIR(bdk parfums )》

夕方、久々に新宿を訪れた。

相変わらずひどい混みようで、人観察に退屈しない所はやはり嫌いではなかった。
まだ日が明るいにも関わらず既に人が酒気を帯びている香りが漂っていて、さすが新宿だと嬉しくなったが、同時にこんな喧噪ごときが嬉しくなるほど東京から遠ざかった生活になってしまったのだと寂しさも感じた。

人生において、これまでも、たぶん今後も死ぬまで経験しないであろう状態の一つに

「楽しく酒に酔う」

がある。私は酔う事が出来ない。

酒を一口飲んだだけで思考が正常なまま頭痛に見舞われるので、今ここに人の形をして息をする事でさえうんざりしてしまうのだ。
だが、私がこの新宿に惹かれる理由も嫌悪する理由もそこにある気がしている。
 
 
さて、ついて早速新宿伊勢丹の香水カウンターを一巡し流行を覗き見した後、NeWomanのNose shopを覗いた。
 
店頭の正面には目新しい香水ブランドが陳列されていた。
そのbdk parfums はフランス発のパフューマリーらしい聞きやすさと華やかさのある都会的な香りが揃っている。テーマにパリを絡めたシリーズも出ており、雰囲気的には伊勢丹などで扱っていてもおかしくない類のブランドだと思う。
先ほどのようなことを考えていたからかもしれないが、その日気になったのはシャンパンのような淡い金色のPAS CE SOIRだった。

所感を以下に残したい。

 

PAS CE SOIR

フランス語で「今夜じゃない」という意味。

トップはジンジャーとマンダリン、ブラックペッパー。ジュースのような透明感、気泡のようなスパイシーさが相まって甘さ控えめのシャンパンのような華やかさと瑞々しさがある。が、その底に何やら色の濃い甘い香りが沈殿している様子が分かる。それは底からグラデーションを描いており、上方に行くほど木の実的な酸味が加わっている。トップとは違って鼻ざわりはやや弾力ととろみのあるジャムやシロップのような質感。上澄みの水っぽさがその透明感をもって底との距離を作り出しているため、この段階では気配が分かるばかりで何が混ざり合っているのか良く分からなかった。

その腹の内を明かさないような含みが何とも食前酒めいていて興味を惹かれた。

程なくすると、その底の沈殿物がマドラーで撹拌されるように全体に行き渡り始める。その明快に放射状に拡散する甘酸っぱさと奥の方にバラのようなチリチリとした鋭利で温かみのある粒を抱えた甘い果実の香りはイチゴのようだなと感じたが、正体はマルメロのようだ。

ミドルの調香はモロッコジャスミンとマルメロチャツネ、オレンジフラワー。

果肉の質感も含まれた煮込まれて柔らかくなった甘いマルメロの香りを白い花のつやのある透明で滑らかな甘みがコーティングし丸みを帯びたまったりとした動線シャンパンの中を漂うのだが、ここで一抹の不安がよぎった。ミドルの香りが、このままこの果実の香りが増してしまったらラストはひどい煮詰まりようになるのではないか、と感じる広がりを見せ始めたからだ。

そしてその広がりは更に速度を増して行き、予想通り煮詰めたイチゴシロップのような、トップに比べたらあどけなさとチープさのある平面的な濃さと甘さで肌に広がり切った。

この地面に引きつけられる様な重力感は、やはりラストのパチュリのもたらすコクと印影のある深い緑が所以だろうか。その熱を帯びたように表面がざらつき脈打つ甘みと下に落ちて行く重力感は、深夜に程よく酒に酔いしれ、時間も自制も忘れて開放感を楽しむ者達の表情とその時間特有の沈むような空気感を彷彿とさせた。

そこには見栄も、深遠で偏屈な思考も、シャンパンを飲んだ時の含みも駆け引きも必要無い。享楽に留まり自分をさらけ出すある種の浅さが許される。

ここでの甘さの極まりは、酩酊した時にありのままの素顔を見せるような、隙や緩みの一瞬のようだと思った。

ラストになると、緩やかにこの柔らかな飴のような甘さの奥がベースのウッドの無表情な板で遮られていることに気付く。その奥の香りはどの様な表情をしているのか分からない。実はこのベースの板のおかげでマルメロの甘さは不必要には広がっておらず、制御されている印象を受けた。その後の、何事もなかったかのように消え去るドライダウンと合わせても、香りは違えどトップのアルカイックスマイルを浮かべている状態に戻ったかのように思える。だから一層ミドルで一瞬見せるあの止めどなく上昇する情熱と高揚感が妙に印象に残って不思議な余韻がもたらされた。

 

公式HPのPAS CE SOIRの説明書きには、パリのとあるマダムのとある夜の出来事が描かれている。

深夜0時以降に繰り広げられる酒と煙草と大人の駆け引きは、文字面だけでは酷く気取って映るのだが、この香りがマダムのその夜の高揚感を補完しているとしたら、それはそれで愉しめる香水だと感じた。

 
 
 
 
久々に甘い香りを試して、頭がふらふらしたまま人混みに紛れた。
 酔いは何も酒だけから得られるものではない事は新宿にいる人々は多分当たり前のように知っていて、
新宿は今も昔も私の事は蚊帳の外で熱気の渦を作っていた。
 
これから新宿に溶け込んでゆくであろう人々の楽しげな横顔を尻目に地下鉄の階段を下った。