回り道をして銀座の高級クラブ街を通過し丸の内仲通りに出るのが毎度のルートだ。
銀座の繁華街では、これから仕事に向かう夜の女性たちの風呂上がりの蒸気感と粉っぽい化粧品と上質なムスクの香りが鼻を掠める。そして時折、その彼女らに会いに行くであろう男性の香らせている暗い薄紫色のフゼアが並走している。
その日は私は以前ピュアディスタンスのイベントで頂いたアエノータスを仕事終わりに身に付けていた。
新作であるこの銘は今までのクラシカルな要素を持った女性的なイメージの香りの傾向よりも一気に現代的な流行の香りに近付いた印象だったが、香りの鮮度や解像度は相変わらず高く安定したピュアディスタンスだったのも興味深かったので、一度共に散歩をしてみたくなったのだった。
所感は以下。
アエノータス(Aenotus)
→トップはオレンジ、マンダリン、レモン、ユズから始まる。
柑橘の苦みと酸味が透明な細かい粒となって広がる。果実の甘さは無く、どちらかというと柑橘を剥いた時の果汁とそれを纏った皮の香りを彷彿とさせる。ミドルに配置されているミントが由来か、その清涼感が柑橘の速度を直線的に高めている印象だった。
一方で、そこから振り返ると中腹に流れの違う柔らかい蒸気のように水分が滞留する厚い層を見つける事ができる。その明らかに何かの皮膚のような不透明さとひと塊としての流れがあるものの、触ればすぐに指の痕が付いてしまいそうなどこかパウダリーな質感は、ザボンの肉厚な白綿を彷彿とさせた。
尚もプチグレンの苦味を境に上層に位置していたユズやレモンの酸味は上方に尖端を向けてさらに上昇し始める。ミドルに差し掛かってもトップの柑橘が立体感を持って前衛に立っているのは非常に新鮮な感覚だった。全体的にパウダリーな甘さが強まったのは、その清涼感で柑橘の速度を助長させていたミントのどこか甘いグリーンの本体がいる場所である中腹に降り始めているからかもしれない。トップから確認できていたあの柔らかな白綿の皮膚の中に入り込んで行く感覚だった。
このように本格的にミドルに入って行く中、ふと鼻の近くに意識を向けると甘さを感じないプチグレンやパチョリの厚い葉のグリーンとピュアディスタンスらしいふっくらとしたオークモスが肌に浸透して行き、やや苦味の伴う粒を点在させていた。それと同時にやや上方ではちょうど柑橘の表皮のような滑らかな固さを持つ、トニックのような密度の高いドライな気泡が肌の波立ちに沿って張り詰め始めるが、その表面に注目すると、まだ形作られる途上であるかのように湯気のような不規則な揺らぎ方をしているのが分かる。
香りの存在感は決して軽くないのだが、トップの人工的なクールさが堅固に持続してゆく。意思を持ってある種の軽さに留まっているようだった。
トップの終盤で上昇していった冷たい水蒸気の一群は、気付くと人工的な角を持った氷山のような透明な柱となってまっすぐにそびえていた。
その沈着な柱の間を、ミントやオークモスの空間を広げるような冷たい霧が風に乗って均一な速さで駆け抜けている。そこのオークモスの誘導によって己の肌の温かさと湿気が霧に混ざってゆくことで、このトップから今までの一連の変化は肌の上での出来事なのだと再確認できた。その運動を繰り返した後、周囲の空気の温まり方に合わせて緩やかにラストへと落ち着いて行く。
ラストはそれまでの鋭角的なスピードが落ち着きミドルの仄かな草花の香りが移った水のような穏やかな流れが生まれた。長い旅を経てようやく自分の体温に戻ってきた印象で、しっとりと潤う春の夜のような温かさを感じた。
ここになって今まで隠れ続けて来たトップのオレンジの甘酸っぱさとブラックカラントブロッサムだろうか、花らしい香りが顔をのぞかせた。トップの速度の抜けた柑橘の香りは相変わらず柑橘の肉厚な白綿に包まれており、この正体はオークモスだったとこの時点でようやく分かった。
この爽やかで軽い質感は、ラストであるはずだがコロンのトップノートのようでもあった。これより肌に近い層ではシャープなトニックのような香りが弱い電流を帯びて肌の表面に逆毛を立てている。これはトップ~ミドルで見られた揺らぐ湯気が相まった途上のものではなく、ミドル終盤の氷の柱を取り込んだ物質的な固さを含んだ密度と強度があり、その空気に反応してさざ波立つ様子は新しく貼られた皮膚の敏感な様を思い出した。コーティングとも思える。
アエノータスはトップからラストまで、肌の香りを巻き込んで何かをビルドして行く作業が繰り返されていたように思えた。
創業者であるフォス氏は、この銘はテニスの後にシャワーを浴びるという個人的な体験と身体性に着想を得たと語っていた。
アエノータスはコロンを浴びる前の、私達の本当のベースノートである皮膚を作る作業の体験なのかもしれないと感じた。
今までの皮膚が纏っていた香りをシャワーで洗い落とし、そこに幾重にも何時も使うシャンプーやボディーソープ、オイルや整髪剤などの香りを儀式の様に重ねて補完して行く。そして新たな身体が完成したラストにして、ようやくこれから振りかけるコロンのトップノートにたどり着くのだ。
この香水を着れば(フォス氏のような)良い男の皮膚を手に入れた事になる、というのは半ば希望の入った極端な解釈になる。
が、そこに近付く手掛かりとして、アエノータスは今日の肌に馴染むスキン系の香りよりも一回り強度のあるベースノートの積み重ね方を教えてくれたのだった。
そうこう香りについて考えていたら、いつのまにかごみごみとした銀座を越えて丸の内仲通りまで出ていた。
周囲は夜の街の粉っぽいムスクから仕事終わりの小ぎれいな会社員らの、今朝方付けたのだろう香水の残り香と丁寧に管理された洗濯洗剤や整髪剤の清潔な生活の香りに一変していた。
空白に一本引かれた線の様なパウダリーなその香りは、仲通りの直線の道を吹き抜ける風とそっくりで、他人行儀に表層だけを撫でて行った。
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