polar night bird

香りの記録

94.人工物の夏《Unsettled( Bruno Fazzolari)》

家の周りを走るのでも良かったのだが、せっかくの人生なので様々な場所を体験しておこうと思い、最寄りのジムに入会した。

明るく挨拶をよくするスタッフや、引き締まった身体の利用者たちが作り出す健康的な雰囲気は正直得意ではなかったが、目当てのプール利用のためなので耐えることにした。

プールはいつ行っても混雑しておらず、思う存分歩くことが出来る。しかし、眼鏡着用禁止のそこは極度の近視と乱視の私にはもはやフランシス・ベーコンの絵さながらの絶えず動き続ける色の集合にしか見えず、その絵の中をひたすら歩き続ける事は非日常で面白く感じた。(かわいそうに、視力の良い人々はこの視覚世界を味わえない)

プールは塩素の香りで人間の有機的な臭いがカットされていて非常に私好みだ。

ただ、エリア全体には水特有の生暖かい匂いがみっしりと充満している。

 

そんな中思い出すのはあまり明るさの無い夏の香水である。

夏香水と言えばマリンのようなビーチに降り注ぐきらめく太陽光やしぶきを上げる海水の香り、白い砂浜、日焼け止めの香り、開放的で情熱的な恋…などを連想するように作られがちだが、前日に試香したBruno FazzolariのUnsettledはまさにその「明るくないマリン」だった。

「Unsettled」という名前からして明るくない。

 

ブランドのオーナー件調香師のBruno Fazzolariの本職は芸術家である。

だからというわけでもないのだろうが、古典的な構造を取っていると言っていつつも香り方には現代的な偏屈さが見られ、そのマイペースな立ち位置には安定したインディペンデント感があり個人的には好感を持てるブランドだ。日本には来て欲しく無い。

 

所感は以下。

 

 Unsettled

ベルガモット、ブラックティー、クラリセージ、パイナップル、ニューカレドニアサンダルウッド、ラブダナム、バニラ、シーノート

という調香をみれば非常に明るくサッパリとしたマリンを思い浮かべるが、そこはBruno Fazzolariであるのでそんな事はない。

トップからパイナップルの果実の甘さとベルガモットが果汁的に溢れ出す。しかし、どこか澄ました様なそれらとは違う方向を向いたやや青みとレザーのようなコクと苦味のある、ミルク然とした半透明さを持つ香りの一軍が感じられる。ブラックティーとクラリセージとベースのバニラだろうか。葉の甘さの中に半分せり上がるハーブ系の独特の清涼感を覚えるクラリセージの香りは程なくして果汁の下に入り込んでゆくが、お茶の香りは終始クールダウンの役を引き受けている印象で、これのおかげでトップは明るすぎず、ミキサーにかけられる前のミルクの中で漂うフルーツのような印象で、テンションとしては早くも落ち着いた下降感を見せ始める。

それらは程なくして一つの平面的な丸まりに収まると同時にそれらトップの水分を乗せてやがて染み込ませてゆくであろう汗ばんだ温かさのある肌のような香りがあるのに気づく。これはラブダナムのどこかアニマリックな臭みのある染み入る様な重さがトップの果汁と合流したことと、受け止める側のサンダルウッドの若干粉めいたウッドの個体感やシーノートの塩気が由来なのだろう。が、バニラがシーノート側で主張していない点でわかりやすいマリン的な記号としては認識できなかった。その肌のような香りの一群は存在感を増し、隣に寝ているのではないかと思うくらいに視界全体に影を作っていった。

ここでもまだ主軸で香るパイナップルは、生果の弾けるフレッシュさと言うよりは缶詰にされて人工的なやわくささくれだった甘さのシロップにより味を画一化されたパイナップルを彷彿とさせる。これは決して悪い意味ではなく、他の香りに関してもある種の人工的で表情の読めなさが一貫しており、頭の揃った独特のニュートラルな秩序の世界観を作り出している。

さて、ミドルも半ばに差し掛かり徐々にバニラがマリンらしく現れてくることで、記号的に海を感じられ始めるが、これもやはりリアルな書き込みをなされた海ではなく、他の香りと同じ、実際にあるかどうかわからない表情の読めなさだった。

少し頭をもたげれば先に書いた遮る人の奥に窓が見え、窓のすぐ外に海あることを簡単に証明できるのだろう。しかしUnsettledはそこまで語る事はしない。ラブダナムと塩味が作り出す汗でやや酸味付いた動きの少ない人肌の香りの塊の縁から、逆光の光のように、マリンの弱めの波立つ動きが見て取れるが、それはあくまで人肌を介して気配のみ鼻に届く。

サンダルウッドはその間、徐々にウッドの表情を強めてゆき、ラストになると昼寝から覚めたように人肌は流木のような角の取れた滑らかな木に変わっている。

その浜辺で拾ってきた流木的な導線の甘さの抑えられたサンダルウッドの軽さのある個体感の木目に沿って鼻を滑らせると、奥にまだ完全に乾いていない海水とシャワーの淡水が混ざり合ったような湿り気を感じた。それを深く吸い込むと先程までの肌とフルーツの名残が感じられるが、それらは基本的に木目の中に一緒くたに詰め込まれており、今は個々の主張を見ることは難しそうだった。香りを探っている内に、水分は木に染み込んで行き、やがてミドルと同じ様に目の前にある木の肌を介してのみ伝わってくる様になった。

 

先にもパイナップルの香りで触れたが、Unsettledは画一化された無表情なマットさが終始面白かった。某情報サイトのレビューで「白いフェドラを被った金髪のヨーロッパ観光客」と称されていたのが頷ける。ただ、メタ的とも言うのか、そのありきたりな存在感がここでは没個性の一因ではなく一定以上の強度を持って浮かび上がってくる。

私が例えるなら、全体を通してレコードかカセットテープに吹き込まれて複製された自分あるいは誰かの、気怠く変わり映えも無いが隣の相手にはそれなりに愛があり(だが関係としては中途半端だ)、周囲に広がる見慣れた空や海は淡々といつも通り美しかったであろう何も起こらなかった夏の日の思い出を、Bruno Fazzolariの箱の外側と同じ色合いの壁紙の変わり映えのしない簡素な自宅で、一人掛けのソファーに身体を埋めて何度も再生して聴いているような妙な覚醒感がある。

そしてそこから感じられるパッケージ化された冷静で無機質な日常の「生々しさ」が癖になるのだ。何度も言うが決して悪い意味ではない。

 夏だから、海だから、休日だからと言って心を躍らせる必要は無い。

ふと記憶に蘇る、何と言うわけでも無い日常の1シーンに意識を傾けることこそ、自分に余裕が無いとできないものだったりする。

 

 

 

 

 

そんな香りの空想も絵画の中の散歩も、担当のインストラクターに見つかってしまったことでおもむろに分断されてしまった。

今は縦の色の線の集合体にしか見えない彼の自分のスクールへの勧誘を聞いて「調整してみます」という曖昧な返事をしながら、次はUnsettledを首筋に付けてプールを歩いてみようと思案した。

 

 

 

www.brunofazzolari.com