polar night bird

香りの記録

111.雪解けの記憶<Essence du Sérail(Sous le Manteau)>

去年から今年の頭にかけて随分環境が変化した。

 

登山を始めたのも変化の一つであり、去年の秋口には城山と高尾山を案内してもらった。

その城山から高尾山に向かう登りの道で、ある香りに遭遇した。

それは濃い菫色の葡萄の果実めいた瑞々しさとオシロイバナネロリの鈴のような丸く明るい甘さで、ススキに満ちた山肌のひなびた風情と辺りの草木の乾いた香りとは明らかに異質に感じられた。

その不意に現れ至る場所で転がる様に鼻を掠める艶のある華やかさは禁欲的な山行には些か不釣り合いで、己の浮き足立った気分が顕現した様にも感じて正体を突きとめるまで集中できなかった。

その香りの主は後に『葛』の花の香りだと判明したのだが、ある日何とは無しにSous le ManteauのEssence du Sérailを吹いた際、媚薬のイメージより先にその香りとそれに伴う山の記憶が喚起されたのだった。

所感は以下。

 

トップ:イランイラン、ベルガモット

ミドル:オレンジブロッサム、ピーチ、プラム、ヘリオトロープジャスミン、スズラン、ローズ

ベース:サンダルウッド、アンブレット、バニラ

となっている。

冒頭は曇天のような灰色めいた乳白色の色味が広がるが、それはある所から上には拡散されずに中腹にジワリと留まった。そこを縫うように、紫色のとろみのある内にくぐもるような粉っぽさのある露が溢れ出し、中央部に伝って流れてゆく。それはオレンジフラワーの明るい透明な甘味に抱き込まれたフルーツ等による濃い葡萄のような凝縮する酸味を持った甘露でもあり、表面に纏う白い粉っぽさはイランイランの薬草めいた有機的な甘さとライラックの様な、半音浮ついた様な仄かなえぐ味と花粉めいた圧力がある。それら花の花粉がこの露の重さを作り出しており、拡散せずに重力のままに一方向に移動している様だった。時折最奥におそらく合成香料の金属質のニュアンスが走るのだが、それの残す余韻が先程の紫色の露と混ざり合う事で血の様な質感として感じられた。この血流の様な流れは主軸の香りとは終始違うスピードで全体を旋回していた様に思う。

引き続きトップノートの動きを眺めていると、露が垂れる先の、まだ剥き出しではない透明で肌の様なパウダリーさのある滑らかなベースノートが作り出す中央部が谷の様に窪んでいると気付いた。露はそこにゆっくりと溜まって行く。

その谷間を覗くと、底に行くに従って色の陰影は深まり、薄暗くしっとりとした湿潤感が全体を満たしていた。露に含まれていた、彩度の高いピーチやプラムの甘酸っぱい熟した果実の重い水気を含んだ香りが光沢の様に香りの表面に時折顔を出すため照り返しの様な印象を受ける。それらを見ているとやはり微弱に水面を揺らす露は変わらぬとろみと重さを感じさせた。

いつしか露は谷間に注がれ切るが、ラストまでそこに留まる訳ではなかった。

ベースノートの土台に溜まるトップ〜ミドルの香りはそのきめ細かい軽い白い粉を固めて作られた様な質感の土台に徐々に染み入り、その湿潤感をもって厚い雪を溶かす様に混ざり合っていた。

白と紫色が混ざり合い、まだその個体と液体の狭間のペーストの中にサンダルウッドやアンブレットの粒感を感じさせる質感となり、境界線を曖昧にして行く。

時間が経つと共にまだ混ざり切らずに認識できる黒紫色の露の特徴はレイヤーを反転させた様に己が混ざり溶かしていたベースノートの粉っぽさの裏側に感じられる様になった。ムスクベースであるのだが不透明で温かみのある、ぬっと内に籠る様なある種奥まった汗ばんだ場所で香る体重の様な香りたち方を見せていた。

ラストに近付くと、いつしか露は混ざり切り雪解けのみぞれは地面に染み入り切ったのだろうか、ダウナーさを柔らかく軽く拡散させ始めたサンダルウッドの乳白色の軽い粉めいた質感の中に、かつての紫色が熟し枯れかけた花の褐色めいた色合いを強めて感じられる様になった。未だ白い花の気配がかなり上方にうっすらと認識できる。これらは混ざりきらなかったものの痕跡なのか、これからやって来る春の気配なのかは分からない。

これらラストの香りはトップ〜ミドルの様なレイヤーが分かる香りの群れではなく、大きな一つの層に集約されている様にも見えた。それらは一つになった細胞の様に細かく曲線を描く縁をお互いに差し入れる形で繋がっている。そのお陰で全体の香りが粒子の中で均一に地面に伏しほとんど動きは分からなくなっていた。

雪解けのミドルの結果として用意された様にも思える静かなラストであった。

 

人はしばしば終焉だけを目指しがちである。しかし、ゆっくりと時間をかけてお互いの雪を溶かし合うその時間自体もまた、芯まで染み入る程に濃厚で甘やかなのではないか。などと思える香りである。

香り自体が直接身体に作用こそしないが、確かにこれは「媚薬」的に感じた。少なくとも私がこの匂いを嗅ぐ際は自分とは違うスピードの何かが私の精神との境界線を超え背中に衣擦れの様に流れる気分がするのである。

 

 

Essence du Sérailを腹部に付けた2度目の日、そんな事を考えながら電車に揺られて帰った。

 

さて、個人的にはEssence du Sérailはどうも自分にとって秘めておきたいプライベートな記憶と結びついてしまうらしかった。

そこに溺れるのも楽しそうではあるのだが、それに気付いた後に2度着込んだ私は更に喚起される記憶を増やしたくなる強欲な人間であったという事であった。

 

薄暗い自宅に帰ると、昼下がりであるにも関わらずすぐに眠気が襲い、いつもと変わらない自分の匂いの布団にくるまって眠った。

 

 

sous le manteau ™