厚手のレザージャケットに憧れがある。
幼少期に夢中になったメタルバンドやハードロックバンドではお決まりのアイテムである。他にもパイロットやバイカー等、かつてなりたかったがなれなかった者達は皆厚ぼったいレザーのジャケットを着こなしていた。
レザー香水も私の中ではそれに分類される。
憧れと一握りの自虐を着込むための香水がレザーノートであった。
Puredistance がMの後継として『M VQ2』を発表してから暫く経った。レザー香水とは言え、前身とは全く違うアプローチに様々なレビューが見えた。
冒頭の理由でレザーは冷静に嗅げないところがあるが、漸く落ち着いた今、私も所感を書いて行きたい。
トップ:オレンジブロッサム、ピンクペッパー、ラベンダー
ミドル:シプリオールオイル、パインタール、ジャスミンサンバック、シナモン
ベース:トンカビーン、テキサスシダー、パチュリ、バニラ、ラブダナム
となっている。
冒頭は全ての香料にピントの合った様な全体がパリッとした色味で開始されるのが最近のピュアディスタンスらしかった。次の瞬間には黒紫色の木の実の瑞々しさが点在して弾け拡散し、土台付近に大きな楕円を作って行った。その拡散の上に分離して乗る様に透明なオレンジ色のやや粘性のあるシロップめいたこっくりとした甘さが滑って行くのだが、このオレンジ色の飴部分の上方はグラデーションを描く様にシャープな酸味に繋がって行く。その部分の、微細で鋭い粒子の流れはややケミカルな早い速度であり、鉄などのインダストリアルな金属を思わせた。飴の部分は早々にその下の木の実の香りと混ざり合い、全体を液体的な滑らかな質感に均して行った。
そしてその香りの先端から徐々に水蒸気じみた微細な粒子の香りが立ち上がり、やがて下に降りてくる。それはややスモーキーで灰色めいた苦味が混ざっている。機械のエンジンが起動と共に吹き上がらせる蒸気と煙の様でもあった。その先端は仄かにガソリン的なケミカルな圧を伴っているものの、勿論実際はそれらよりはずっとクリーンな透明さである。
一方でそれらの奥に収まる形になった冒頭の粘度のある暖色めいた甘さは丁度広がった木の実の香りに重なる様に土台にぴったりと張り付く様に大きく広がりきり、全体像が見えなくなっていた。最奥で均一に広げられた木の実と暖色の暗い甘さにはパチュリやシプリオールだろうか、粒の大きさや配列は同じながらそれらとはまた違ったしっとりと重い清涼感を伴う甘さが繋ぎとなっている。ある程度の湿潤感を最奥に留めておりレザーのこっくりとした有機的な甘さを彷彿とさせた。
煙はその香り全体の縁を旋回する様に吹き流れてゆく。動線を追っていると、革の表面にコーティングがなされてゆく様に煙との境目にきめ細かい光沢が生まれて行き、それにより、鼻の前の香りのフォルムが明らかになって行く。
光沢の波は緩やかなカーブを描いていた。動物や有機的な物のそれというよりは、正確に引かれた幾何学的な滑らかさのある曲線である。曲線の端は柔らかな弧を描いた後垂直に緩やかな等速で下へと降りて行く。相変わらず全体像は把握できないが、嗅覚の移動と共にこの緩急が不規則に繰り返された。ただ、プロポーションは無機質であるものの、質感はほぼ同じサイズの細かい粒で構成されているが故に押せば動き反発するしなやかさがある。
そこで私は、弾力の強いレザーシートの自動車のイメージを覚えた。新車らしいまだ溶剤の香りの残る清潔な内装の、クラシカルな丸みを帯びたボディの新車である。自分のものになり初めて入れるエンジンと吐かれる排気ガスの不思議と清らかな振動と香り(本来そんな事はないが…)。
そんな自動車を遠目から眺めるのではなく、至近距離で堪能し尽くす様な質感であった。
全体に回る煙が過ぎ去ると共に、表層のしなやかさは徐々に堅くなり、金属質な光沢を伴う固形感に変わって行った。香りの先端に煙の残り香のシャープな酸味がデジタルの粒の様に敷き詰められている事でこの均整のある金属質のボディと光沢が出来ている様であった。
その装甲の奥には、トップで見た甘い香りの群れが整然と配置されている様に確認できるが、それらに触れることは距離的に難しかった。ただ、それより手前にはまだレザーの香りを担っていたしっとりとした甘さの柔軟性のあるシートが感じられる。それらはトップで見た甘さと金属質の酸味の関係性を踏襲しグラデーションで緩やかに繋がっている。鼻が主軸で追えるのはメタリックで滑らかな曲線だが、ふと脇見をするとレザーシートに投げ出されそれに抱き抱えられることになる。
それはレースコースの様でもあり緊張感がありそうな所であるが、そこには不思議な心地良いリラックス感があった。
『M VQ2』は、普段であれば皮膚の外側に着込むであろうレザーを内側に抱き込んで香る。
普段硬質な記号を伴いがちなレザーの別の面、その包容力や柔らかな柔軟性を見た気がした。
煙は現れたり嗅覚のフレームの外へ行ったりと終始動き回っている様であった。
こうしてラストまでその煙と共に主軸の香りを追ってみたものの、ついぞその大きな全体像を把握できるまで離れることが出来なかった。だが、あえてその全てを一度に知らずに細部をなぞる事で全体を想像して行く作業もまた快楽である。
レザーも金属質の装甲も、やがて漂う煙の水蒸気の中に溶け込んでいった。煙の印影かはたまた余韻か、仄かに残ったレザーの暗い甘さと不透明な圧迫感が煙の清浄な白い線のやや斜めの背後に付いて走って行き、やがて消えた。
さて、スムーズな曲線美の他に『M VQ2』に常に感じていたのは無機質さであった。
旧版の『M』に関しては、中盤にレザーの様相になる気がしているが、それは肌に近い部分にあり、伸縮性のあるウェアラブルな革を思わせた。
それと比較して、『M VQ2』に関しては、革を彷彿とさせる部分の鼻との距離の遠さと動きの少なさ(他の香りの群れと比較して)からも、それとは対照的な、レザーが内に向いた空間的な印象を持ったのであった。
半ば無理やり007のと絡めて言えば、ボンドやQと言った生き物というよりやはり自動車のアストンマーティンを連想する。
序盤〜中盤の、気体的な香りが空間内を通り過ぎ香りの表層を撫でて行くことでレーダーの様にそれらのプロポーションが浮き上がってくる描写や、光沢のデジタル感は何やらQに改良された様な近未来的なハイテクさを思わせた。
自動車を彷彿とする香水はあまり出会った事がなかったため、自動車好きとしては嬉しくもあり、変なバイアスを心配する所でもある。
この記事を書き終わった後、M VQ2の残り香と共に少し上野を散歩をした。
少しだけハードボイルドで行きたい時、上野ほどその願いを汲んでくれる街はない様に思えた。
そしてよく覗く輸入品の店の季節外れのレザージャケットを試着して、結局買わずに帰った。