polar night bird

香りの記録

110.低血圧なグルマン、あるいは私の肌の香り《ECCENTRICITY(JMP Artisan Perfumes)》

少し前、形容し難い心ここにあらずな状態が続いていた。

心地良かったが、浮世を離れ過ぎて仕事に支障があった。

もしかしたら先の聞香会のために砂糖を抜き過ぎたのかと思い、一度しっかりと糖分を摂取して脳を現に戻そうと喫茶店に向かった。

 

その日初めて入った地下の喫茶店では、黒い色のシャツを着込んだぼんやりとした1人客は私だけであった。

カウンターに座ってカフェオレを頼むと、古いバーの様な照明と喫煙可能の喫茶店特有のヤニと煙の乾いた苦味で壁がもったりと内側に膨張して感じられる独特の匂いが迎えた。店内のカップル達は何故テラス席のある輝度の高いカフェに行かなかったのか不思議に思えた。

 

この日身に付けていたのはポーランドの香水ブランド、JMP Artisan Perfumes のECCENTRICITYだった。

ちょうどコーヒー類の所謂グルマンの香水なのだが、厳密にグルマンと言えるのかは分からない、グルマンとスキンフレグランスの間にある様な所が妙に気になって折に触れて使っていた。

カフェオレを待つ間、それを改めて探ってみることにした。

所感は以下。

(シュルレアリスムを引用している香りらしい。ただ、それを絡めると長くなるため敢えて一切考えずに記録に残す。タイトルとの関係も一旦は考えない)

 

ECCENTRICITY

トップ:カラメル、ローズ、チェリー、ジャスミン、ココナッツ

ミドル:サンダルウッド、バニラ、カプチーノ、アーモンド、バター

ベース:ホワイトムスク、アンバーグリス

 

トップから一気にカラメルの効いたカプチーノの香りが中心に広がる。カプチーノは既にバニラやアーモンド、ココナッツ、バターの舌の内側に籠る様なスイーツを想起させる不透明な白色の甘みとミルクの表面に張られた薄膜の様なこっくりとした油脂感によって結構な加糖と泡立ちがなされている様に感じられる。が、同時にその泡立つ甘さの奥に淹れたてのコーヒーのカリカリとした香ばしい暗色の苦味も伴っているために、甘さのテンションはこれ以上は高まらない。

その下にチェリーの、これもまた暗色の甘酸っぱいペーストが満遍なく引かれている。動きはほとんど無く、フルーティーなコーヒーの酸味とも感じられる。ベースの現代的なアンバーグリスもまたこの甘さに最初から加担しており、そのややべたついた茶褐色のシロップは、白いもったりとした無機質なカップの縁の零れたコーヒーの筋を思わせた。

確かに美味しそうなグルマンであるはずなのだが、その写実的な描写ゆえか、やや薄暗く沈んで堆積するダウナーな始まり方である。

一方でこのカプチーノの香りの奥には木質の低調なテンションが、カプチーノとは距離をおいた別軸で走っている様にも感じられた。サンダルウッドだろうか。だいたいベースであるサンダルウッドがミドルに配置されているのも面白い。この木の手触りは爪を立てれば跡が付く程度に柔らかくやや粒子感があるが、サンダルウッドによくある甘さは控えめである。その上を時折薬めいた清涼感のあるローズがまるで関係のない様に澄まして通り過ぎる。そこの清涼感同士が交差すると誰かのつけているモダンニッチなコロンの様に香りが一瞬舞い上がった。

この異なる二者が対峙する様を俯瞰する状況はしばらく続く。他人事を眺めるには丁度良い距離である。

だが、時間的にミドルに近付いた頃、ここへ来て柔らかな物言わぬ木として認識していた最奥に、ちりちりとした繊細な粒子を感じられる様になった。

甘いコーヒーの揃えられたダウナーさとはやや異質である。血の通った、うすくその奥の呼吸と脈が伝わる様な有機的な抑揚をもって漂っている様に、まるで何かの皮膚の様に感じられる。

それを知った途端、コーヒーに絞られていた薄暗い視野が開けると共に、遠くで併置されていたとばかり思っていたコーヒーとその皮膚が自分の肌の上で一気に距離を縮めて重なり合ってしまった。

全貌に光が当てられた今、トップで具体的に描写され尽くしたはずの「コーヒー」はどこにもなく、あるのは私の肌のみであった。

そこにはムスクの軽さを纏い、乳白色の圧のある柔らかな油脂感が湯気の様に上層に立ち込めている。飲み物というより人肌に近い温度であった。

その湯気の下にはアンバーグリスらしい暗褐色のカラメルの香ばしい甘さが敷かれている。辛うじてその上澄に小さな球体として感じるかつてコーヒーであったであろう苦味は、カラメルの煮詰まった甘さへとジリジリと染み込む様なグラデーションを描いて繋がってはいたが、それもコーヒーではなく汗ばんで焼けた肌の表面に走る塩気の粒子となって肌の上に角を立てていた。

カラメルが遠退くとその下から再び顔を覗かせるローズとジャスミンはトップに比べたらはっきりと主軸として香るが、具体的な個々というよりは、束になり表面が外向きにややシャープに突出する蜜のような甘いニュアンスを持った抽象的な線として全体を横断している。その外縁には温かくベビーパウダーめいたきめ細かいパウダリーなムスクが肌と一体化している様に定着している。

それを聞いていると、確かに自分の肌であるのだが自分を通して誰か他人のそれを嗅いでいる様な感覚に陥った。おそらく冒頭でも感じたバターの様な質感の透明なニュアンスが未だ嗅覚と香りの間に残っているためである。それが常に距離感を助長させ、一貫した低調さに繋がっている。

やがてコーヒーの香りはそのジャスミンとローズの層を濾過する様に通り過ぎ、ムスクに取り込まれて行く。油脂のニュアンスは水分を抜かれて苦味を増しており、仄かに塩気の細かな三角形を底に残しながらそれ以上染み込まずに肌の上に止まっていた。

ラスト以降は汗が引く様にジャスミンとローズも肌の奥へと遠ざかった。残るのは甘めのパウダリーなムスクと乳白色の内に巻く様な圧、そしてそれの中で粉々になって満遍なく沈澱する乾燥した豆の苦味の粒だけになった。

時折思い出した様にアーモンドと塩気の効いたニュアンスが表層に香るが、鼻を近づけると煙の様に揺らいでしまった。

 

 

コーヒーと肌。香りの中で通常であれば全くの別物である二者の境界線が溶けている。

コーヒーが私になったのか。あるいは私自身がコーヒーになったのだろうか。

コーヒーを覗く時、コーヒーもまたこちらを覗いている。という事か。

そんな下らないことを考えてしまった。

 

トップからの変化と構成がトリッキーで、やはり今の作家香水らしい作品だと感じた。

ただその変化も常ににダウナーな調子に終始するので、私の様な深読みする孤独と暇さえなければ男性も付けやすい甘さ控えめのグルマンとして日常使いできるだろう。

 

 

このタイミングで出てきたカフェオレはカクテルの様に二層に分かれており、喉に流し込むと立体的な甘味と共に洋酒の蕩ける香りが口に広がった。

頭を冴えさせるために訪れたのに、またぼんやりとした真綿に沈んで行く様だった。

カップル達の少し弾む張りのある声音が丁度音楽の様になって行き、暫し聴き入った。

 

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