polar night bird

香りの記録

109.香木の霊魂(香木7種のレポート)

麻布香雅堂にて開催されたイベントで、今更ながらほぼ初めてしっかりと香木を聞いた。

月の初め辺りに香道の展示を見てからというもの香木への機運が強まっており、今回然る殿上人のお陰でイベントを知り幸運にも予約が成功して今日を迎えた。

私はこの日がとても楽しみで、砂糖と化学物質の摂取をかなり控えたりと脳と嗅覚の浄化と養生に勤しんで臨んだのだった。

 

会では7種類の香木を聞いた。

テーマは「苦」であった。

初めてであるため、嗅ぎ分けや銘柄当ては考えず香木の香りのみに専念する事にした。

五味の識別も出来ない様な、専ら香水ばかりを嗅ぐ者が香水の文法で香木の幽玄さを語る恐れ多さは強く感じている。が、この感動が冷めないうちに下記に所感を残したい。

香道経験者は素人門外漢の一感想として温かく見守って欲しいし、未経験者はあまり参考にしないで欲しい。

 

①面白(伽羅)

まろやかな動物的な酸味のある厚めの層を潜ると、横に流れるミルキーな甘味のある暗いグレーに乳白色がかかった層がある。その中にシナモンめいた明滅が局所的に凝縮したような形で均等に配置され流れている。これは通常でも茶色の鮮やかな点として現れ認識できるのだが、香りを極限まで吸い込むほどに周囲の甘さが嗅覚によって引き延ばされる力によって外側に引っ張られるように拡大して感じられる。

全体的に横に流れる層が堆積されている様な印象を受けた。

高温で焚くと甘味の立ち上がり方がぐっとふくよかに迫ってくる。柔らかな温風のようで、意識的に吸い込もうとしなくても形が良く分かる。香りの縁のグラデーションが柔らかくなり、中心部のちりついた茶色の部分との境目がやや曖昧になっていた様に感じた。

優しい聖なる動物、あるいは温帯の太陽のようでもある温かさだった。

 

②志(伽羅)

こちらはちりつきが表層と底に掛かっており、それに挟まれた滑らかな中心部はほの暗く沈着であり、あまり動きはない。終始①とは対照的なクールな温度であり、スパイスの粒子に似たちりつきと中心の境界にはどこかヒノキやシダーウッドなどの木の幹の清涼感が仄かに感じられた。

高温で焚くと、沈着なテンションはそのままながらより運動が明確に感じられた。苦味的なちりつきが一層一本の平たい帯の様に繋がって感じられれ、それが繋がったまま動いているのだが、やがて上から中心を突き抜けゆっくり下へ降りて行く様な動きをしている事に気づく事が出来た。

断崖に走る太古の地層を見ている気分になった。

 

③春霞(緑油伽羅)

最も西洋的というか現代的な香水にも近い香りの運動であった。焚く前から香りが感じられ、その際は華やかなきめの細かい白い粉が軽く縦に流れる。どこか歌舞伎的な艶を感じた。

これを焚くと、白いまったりとしたミルキーな流れの中にミントの様な甘味のある柔らかな緑がかった香りが螺旋状に広がってくる。この筋の輪郭にはちりついたスパイス感が縁取っており、その先端の微弱な鋭角さが筋のコントラストを強めている。その華やかさに和の飴玉のような質感も覚えつつ、この運動のある種の派手さに①や②には無い「水」的なものを感じた。ただ動きが明確さの軽快さに気を取られて層の縦軸の観察まで手が回らなかった。

 

④雪間の草(羅国)

樹脂化があまりされておらず、やや若いものらしい。

伽羅と変わって全体のフォルムが丸いと感じた。暗い色のこくのある酸味の皮の中には、甘味の中にハーブめいた緑がかった苦味がある。この点は③に通ずるが、こちらは中心が柔らかな乳白色に満たされており、安定しておりあまり動かない。全体的に淡い緑色の強い色合いで明度が高く、①や②の様な重みは弱いがプロポーションの丸みと優しさで言えば1番印象に強い。

 

⑤朧月夜(真南蛮)

こちらも丸いフォルムに感じた。中心は甘めのスパイス的な小さな明滅を感じられ、やや暗い重厚感がある。層の境界他のものに比べて明確ではなく、中心部の甘さは伽羅に似ていたがもう少しシナモンの様な温かな体温の部分が緑めいており清涼感がある。中心は汗ばむようなじわじわとした湿度で、明滅はその動きと合わせて絞られて染み出す様に動いている。

高温で焚くと、丸いフォルムの中心に、茶褐色の粒子が幹のように太い幅で縦に走る様に感じた。高温で焚いた際のフォルムの変化が一番顕著で驚いた。

 

⑥柴の戸(寸門多羅)

ややしょっぱみの様なニュアンスのあるちりつきがあり、こちらは角の丸い三角形を思わせた。暗い色合いのスパイス様の明滅は中心を三角形に取り巻く太い線状になってベルトコンベア的に均一なスピードで絶えず回っている。ちりつきにフォーカスするとシャクシャクとした涼しい質感をしており、そこに切り込まれた細かい間隔で確認できる溝は、なぞると殊の外深く刻まれた凹凸になっていることが分かった。

中心はやや狭く④に似た乳白色のやや閉塞感のある香りが詰まっている。どこか緑がかった甘味は中心に行けば行くほどしっかりとした質量になっていた。

 

⑦あから橘(赤栴檀)

何の木か分からないと言った所で興味津々な種類であった。実際焚く前から明らかに沈香の香りではない爽やかな酸味がある。

焚かれた香りはフランキンセンス的な柑橘系を思わせる明度の高いシャープな拡散を見せた。全体的にも柑橘系の花粉の粒子の細かさに近い粒が全体に散らばって漂っている。

フォルムは伽羅に近い、横に流れる層の堆積に感じられた。最奥は伽羅の乳白色に近い重さと滑らかさを感じたが、やはり全体が粒子的で軽かった。

 

 

以上である。

個人的には②の辺りで目に入る光が多くなった様な覚醒感を感じて印象深かった。

「苦」とは何なんだろうと考えてみたが、私の知覚においてはスパイス的なちりつきの事なのかもしれない。他の香りは面で大きく動くが、このちりつきはやはり粒的な小刻みな動きをするため、香水の運動に慣れ親しんだ者としては動きとしてのニュアンスが掴みやすかった。

 

 

香木の香りを聞く事は生き物の最奥の魂魄の香りを聞いている様な気分であった。

 

途中その途方も無さに放心しかけたが、いつの間にか何百年も経て巡り会えた木々の魂に触れる幸福感に包まれていた。

人の香りを吸い込むのはその人の霊魂(エスプリ)を吸い込む事だと誰かが言っていたが、それが今なら何となく分かる。

聞香で香木の最深部に触れようと丁寧に注意深くその香りの質を聞いて自分と溶け合わせてゆく喜びは、人を愛した時のそれに似ているのかもしれない。

 

書き切らない事も沢山あるが、今日は良い経験をした1日だった。

明日からの人生もまた香りを聞く様に丁寧に聞いて行けるだろうか。

ただ、今は今日1日の香気に浸っていたい。