polar night bird

香りの記録

106.罪作りな者達《Tubereuse criminelle(セルジュ・ルタンス)》

人を連れて銀座の香水を巡った。

阪急メンズ館、Nose shop、Le labo、FUEGUIA1833…

知り合って間もない相手の事は良く知らないままであったが、香水初心者への配慮も忘れて香水店に連れ回した。

 

私が香りについて話して、ムエットを渡し、相手がそれを受け取る。その単調なやり取りや挟まれる他愛無い会話の中で私はその所作や香りへの反応から目の前の者の正体を探り、その人もまた時折私の事を観察している様であった。

ただ、説明へ耳を傾け、率直な所感を返してくれる姿勢に安易な満足を感じられてしまったのは、良くも悪くも私も歳を重ねたという事だろうか。

 

GINZA SIXを後にし、セルジュ・ルタンスを改めて嗅ぎ直してみようという事で資生堂へ向かった。

1人で回る時と誰かと回る時では求める香りが変わるのが面白い。その日は何故だか普段ならあまり試さないであろうレザーや苦味のある不透明な香りばかりを追っていた記憶がある。中でも

Tubereuse criminelle[罪作りな月下香]

が印象的だった。

 

調香は

チュベローズ、ジャスミン、オレンジブロッサム、ヒヤシンス、ナツメグクローブ、スタイラックス、ムスク、バニラ

が公表されている。が、他の記事でも言われている通り、1番奥底にスタイラックスを始めとした樹脂が由来であろう弾力がゴムのようなガソリンめいた香りの不透明な密度と弾力のある層が最初から確認できる。それはその上に注がれた色で言えば暗めの黄緑色をした樟脳の類に似て青苦くその粒の奥の瑞々しさには薬品めいた甘みが混じる液体の揺れに合わせて波立っていた。その液体の表面では鮮烈な青さを伴った花々の甘みが明滅しながら鼻に向けて突き上げる様に主張をしており、その両脇から薬の瓶を開けた時に湧き出す煙の様にガソリンのガス質が悠然と上方に立ち上ってきた。

やがて花々の火花が収まると、その液体へ向けて上方から白い花の香りが散り散りに舞い降りて来た。それは大ぶりの白い花のまろやかな気配を感じるが、まだ具体的な花の形ではなく花粉の小さな粒として認識できる。境界に接した後は液体にゆっくりと沈んで溶けて行く様だった。一方花粉のいくつかは薬めいた液体と共に最奥まで到達し、無機質に揺れるゴム層はそのチュベローズの花粉の動物的なニュアンスを取込んでいる様だった。その吸収が進む程、ゴムはこくの深い有機物の硬い堆積を思わせる質感と暗い不透明感を持った使い込まれたレザーの様な様相を呈し始めていた。そこからやや鼻を遠ざけて聞くと、工業的なガソリンの香りと鼻に抜ける青みが相俟って車のシートのレザーの艶を思わせる。

ゴムレザーに気を取られている隙に、表面近くに一際大きなチュベローズの蕾が現れていた。それはまだ完全なチュベローズの形をしていない。全体は白く丸い瑞々しい塊のフォルム、それに沿ってくすぐるように鼻に追随するきめ細かく無垢な表面の質感とその奥の白い花に特有の濃厚で湿ったアニマリック感として認識でき、周りの明度の低い苦味やゴムレザーの暗がりとの対比で一層異質に白さとその造形が際立っていた。

かつて薬めいていた液体は、チュベローズからグラデーションを描きやや青さを増させた茎の様に細く平たく伸びており、そのもう片方の先はゴムレザーに繋がっている。ゴム質はその茎を伝ってチュベローズの瑞々しさを吸い更に肉厚な弾力を持ち始めていた。

さて、チュベローズの丸い香りの集合体はいつしか徐々に解れて花粉を自身から放出し始めるようになった。しかしこの段階で、かつてチュベローズの蕾が持っていた重さのある湿潤感と凝縮感をゴムレザーの方が担うようになっている様であった。重さが更に下に掛かることで全体の陰翳と白い花の動物性が成熟して行くのが感じられる。チュベローズのある位置からはパウダリーな質量の軽い白い花の香りが舞い、そしてそれらもまた、薬品の茎を通ってレザーへと向かって行く。薬品はチュベローズの往来によって脂肪の様な厚みのある柔らかさを持ち始めており、チュベローズの軽やかな動きに合わせて揺れ、その振動でその奥に繋がるゴムレザーも揺れ動く。二者の間で伸縮するその苦い茎が動くたびにそこから染み出す花とレザーが混じり合った苦甘さによって、絶えず近付き離れる両者の距離が伝わって来る様であった。

この様に均衡を保っていた香りもラストになる程に少しずつ距離を縮め混ざり合い、バニラとムスクの花弁をなぞった質感の様なパウダリーさが増したチュベローズの花びらが満開となって辺り一面を覆い尽くしていた。二者の間の薬品は気化したのだろうか、その苦味もまた粉っぽい質感となりチュベローズの中にあってチュベローズの他の白い花に比べて青々しい縦に伸びるえぐみを担っていた。

そして、ゴムレザーはどこへ消えたのか。

辺りに鼻を向けて探ると、チュベローズ全体がゴム質の香りで覆われている。その聞く各度によって反射させる滑らかでつるりとした光沢はチュベローズの花粉をそこにとどめて花の形を保たせている様で、ここへ来て初めてチュベローズの霊魂が器に収まり地上のチュベローズとなった様に思えてきた。ゴムレザーはついにチュベローズの全てを包容したのだ。

花の形の中でサラサラと漂うチュベローズの中の清潔な白いムスクが徐々に存在感を増させて行く。それらは今まで感じられた輪郭のレザーの動物性の中にも浸透し、その密度ある湿潤感を分解して行った。両者の関係性に終わりが近付いているのだろう。それがハッピーエンドか否かは分からない。この時点ではもう完全に一体化した両者の間に距離は必要なく、チュベローズは淡くほろほろと解れてホワイトアウトして行った。

 

テュベルーズ クリミネルは、全体を通してチュベローズとゴムレザーの距離の変化の緊張感が快感を誘った香水であった。

前回記したNo.12は全体が密接に繋がり一体になる様な有機的な呼吸があったが、こちらはいくら互いに繋がったとしても最後を省けば両者は常に他者であり、そこには摩擦があった。間に入る青みのある液体層はその不協和音をも写し取って正直に揺れ動く。

そしてゴムレザーは常に受け身の様でありながら自由な軽さのあるチュベローズの手綱を握ってその動きを少しずつ制御して行く。二者の関係は互いに同じ力で引き合う様に見えて決して力は対等ではない。その含みもまたスリリングであった。

チュベローズは確かに分かりやすく罪作りである。しかし、素知らぬ顔で蕾の香りと露をその包容力で吸い込み続けて放蕩なチュベローズにさせてしまうゴムレザーこそが1番の罪人なのではないか。

 

 

香水を聞き過ぎた私は、その夜のディナーの時間には酒に酔った様に余計な事も話し過ぎた。話すのは苦手なはずなのに、完全に律されていない感情の中で何かを沢山話した記憶だけがあった。ただ話しただけで、次はない。

 

帰ってすぐにベッドに潜り込み、すっかり正気に戻った頭で己の痺れる様に重くなった血流を感じながら暫く微睡んだ。

完全に目を閉じる前、ふとテュべルーズ クリミネルの残り香が横切った気がした。

 

 

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