polar night bird

香りの記録

99.ナエマの赤い薔薇《NAHEMA(Guerlain)》

外は麗かな春だというのに外に出にくい日が続いている。

香水に会いに外を出歩いたのはいつだっただろう。

思い返すと、確かその日の日比谷は新型コロナウイルスの影響で人通りは少なかったが、今よりは活気があった。

だがやはり人混みの力は弱く、風の強い晴れた空の下陽の光とガラスへの反射がいつもより眩しく感じられて足早に店内に入った。

こんなご時世にわざわざ何故出向いたかと言うと、もう一度廃盤となったナエマを試香するためだった。

ナエマは長らく購入を考えながら決断を曖昧にしていた香水だ。

このくらいの名香なら無くならないだろうとたかを括っていた矢先の廃盤であった。

永遠に続きそうだった気分にまかせて散歩が出来る日常も、安定的な人気を誇る名香も、ある日簡単に消えてしまう儚いものだった。

 そんな私の感傷など関係なく、帝国ホテルのナエマは相変わらずの濃厚な薔薇の香りで私を迎えてくれた。

所感は以下。

 

 

この日は肌に載せた直後は薔薇や鼻の香りよりも、トップの水気の多い甘さのないライムを雫として含んだグリーンノートから始まった。

それから徐々にその奥に丸みを帯びた重い香りが浮かび上がってくるのだが、それが近くなる程に感じる、堅固な鉄の様な金属感とそれを覆う蜜のような滑らかな密度によって、これがローズの香りの塊だと気付かされる。

キンキンとした鋭角的な甲高いローズではなく、面として迫って来るような低音を思わせる不透明で深みのある濃厚な赤い薔薇である。

香りの縁は温度の低いパウダリーさを持つピーチやライラックなどが織りなすきめ細かい粒子感のやや彩度と粘度のある甘さを帯びているが、それはローズの香りの塊の内部から振動を伴いながらにじみ出ており、その塊から感じる密度と圧は純粋なローズの他にも様々な物を内包した重みなのだと感じられた。

一方、はじめに空間を作り出すグリーンと柑橘系の粒は、中心と比べると粒子間の距離が均一で、エモーショナルと言うよりはフラットな放射状の往来によって空間作りに徹している印象を受けた。

だがその下層にはヒヤシンスとイランイランが根を張っている。ヒヤシンスは中央のローズのスピードに並走しながら調整するように空間へ馴染み甘酸っぱさを付与させて行き、イランイランはその濃厚さを押し出すわけではなく、むしろその生っぽい薬草的な鼻に抜ける清涼感のある青味で存在を認識できる。

それを手がかりに外側から中心に目を向けると、イランイランはその塊の輪郭を描く様に回っている。それのおかげでローズの塊に実際の薔薇の花弁の端と端がが重なり合っているような肉厚な襞状の陰影が生まれ、それが時間と共に広がってゆく様子が認識できるようになった。

その間、時折薔薇の上空をミドルのジャスミンライラック、スズランが通り過ぎて行く。それは中心のローズに比べたら身体を持たない記号的な気配として、拡散する水蒸気のような青味に乗って均一な速さで軽やかに移動している。

そうやってローズと外界を行き来していると、いつの間にかローズの蕾が開き切っていた。青味のある水蒸気の走る空間は蜜と油脂めいた滑らかさと圧を持つ不透明な深紅の薔薇の質感に満たされている。そこでのローズは、トップの濃厚さはそのままに、固形感よりも粘土よりも柔らかくきめの細かい質感で、滑らかに呼吸する様に緩やかな波立ちを見せている。

トップまでは「鉄」「濃厚な固形」と感じられた赤いローズは、今や大きな生き物を満たす血潮のようにも感じられて来た。

さて、先程までの外界の花々の気配はどこに行ったのだろうか。そう考えながらローズの香りの呼吸に注意を向けていると、その波立つ半固型のローズの粘土で塑造するように、先ほどまでヒラヒラ飛んでいたジャスミンライラック、スズランなどの花々の香りがが局所的に浮かび上がってきた。

その香り方は先程よりもはるかに立体的かつ素材であるローズの油脂感と蜜めいた質感で、皆一様に深みのある赤い色を思わせた。そして一通り造形が終わると、花が蕾を萎ませる様にまた抽象的な形になりローズの波に戻って行く。

全てが中心のローズから生まれ、そしてまたローズに帰って行く。そのような流れるようなメタモルフォーゼがローズの呼吸に合わせて有機的にリズミカルに繰り返される。

 

時間の経過に従ってメタモルフォーゼのパートは弱まり収束してゆくが、それと比例してローズはまた中心に向かって丸く集まり始める。そしてバニラの目の彩度の高い細かいレース状のベールがそれを取り囲む。バルサムの透明で凝縮感のある甘みのある香りがローズの中に入り込み、コーティングがなされてゆく。それによってローズは先程の広がり続ける血のような臨場感のある半固形から突然時間が止まったように最初の鉄の様な固形に戻って行った。だが内包しているものを放出し切ったのか、香り立ちの体積感はトップに比べて小ぶりだった。

ローズを取り囲むベースノートは質感のみで透明でありながら、サンダルウッドの甘味を吸った粒子やバルサムの滲むような液体感、フルーツの水気を含んだシャープな粒が自由に動く香り方などが光を取り込むフィルターとして幾重にも目の前にかけられて行き、ローズの形は更に抽象的になりながら遠く離れて行った。そのラストの覚醒感、空間が再び明るく開けて行く様子は、今まで誰かの夢を見ていたような気分にさせられた。

 

ここまで濃厚なローズの独壇場の香水は今日では珍しいと思う。

だが決して重い訳ではなく、何時でもどんな時でもタイムレスに香る香水である。

 

このナエマは千夜一夜に出て来るナエマ姫の物語をテーマに作られているらしい。

(だがこの物語は実際の千夜一夜には無いとされる)

どんな内容かは「ナエマ 物語 ゲラン 」と検索すればすぐに出て来るので私の記事では割愛するが、この香りを聞いた後に読んでみると、ナエマの香りは自己犠牲のお姫様の物語と言うより旧約聖書においてアダムの従順な妻となる事を拒否して自らの意思で楽園を離れたリリスの姿と重なる。

薔薇のルーツは中東である。キリスト教と結び付く百合とは対照に、西洋の規範の外からやってきた魔術的な異端の花である。

本来誰にも何にも従う必要の無い自由な薔薇は、その意思のままに、どのような者にもなれ、どのような場所にも行け、どのようなものでも生み出す事が出来、そしてそれら全ての母になる事が出来るのである。

 

 

 

いつもなら試香をした後にはしばらく香りと一緒に遠回りして歩くのだが、今回ばかりは大人しく家に帰ろうと思った。

だが人が毎日何人も床に伏し世界全体が混乱に陥っている最中でも、崖の下の資産家の庭に生えた桜は去年と同様満開だった。

さらに近所の家のには赤・桃・白三色の丸く可愛いらしい桜が咲いており、そのついでに立ち寄ってしまった小径は相変わらず芳しい花々の香りの気配に満ちていた。

そうしてたどり着いてしまった先の、訪れるつもりのなかった沼辺のベンチに腰掛けた。

いつもと変わらない風に吹かれていると、腕に乗っていたナエマのローズはドライダウンのベールの奥に完全に消えて行った。

 

 

 

 

www.guerlain.com

※もう日本語HPには情報がないが、私が訪ねた時点ではまだ店舗にはナエマの在庫が極僅かにあった。